積み本は劣等感の具現化

ちゃんと描きたいテーマだが、とてつもなく眠いので、今回は序章ということで少しだけ。

 

「積み本」とは読んでない本の集まりで、今読んでいる本を読み終わってもいないのに次をすぐ買ってしまう、自然発生のピラミッドである。

なんどもなんども続くので、消滅することはない。

 

なぜ私たちはピラミッドを建築してしまうのか。

 

 

私の場合は、本を読むスピードと本を欲しがる頻度が全く釣り合っていないからである。

読書好きとは言っても、1日中ずっと読める体力なんてないし、一冊読み終わるのにすごい期間が必要になる。

 

生きていく中で、たまには映画も見たいし、友達のSNSだってみたい。

読書時間とは余暇世界の暮らしである。

 

それに対して、あ、あれ読みたい・・・これも読んでみたかったやつ!という機会は人生に非常に多く登場する。

たとえば好きな写真家が紹介していた本、有名な人がつぶやいていた本、実際に私の大事な本は、読書とは異なるところから発見される。

 

そして、そのことに関して私が言いたいのは、

その本を手に取ることは、一種の憧れなのである。

 

憧れの人が読んだ本、素晴らしいことが書いてあるに違いない、私も同じように・・・。そう思ってしまうのだ。

私も言いたい。「あの本は素晴らしい」「影響を受けた本です」「何度読み返したかわかりません」とか。

 

それはつまり、劣等感そのものである。

 

眠いのでここまで・・・。

わたしの読書史(2021/05/05)

今でこそこんなに読書をするようになったが、いつから読むようになったのだろうか。

思い出しながら書いてみたい。

 

まずはっきりと思い出される本との出会いは、小学三年生のころ、田舎から都会の小学校に転校し、寂しさと学校になれるのに必死で、本が好きなふりをしていたこと。

休み時間に何をしていいかわからず、辛くなって泣き出しそうになる前に、本を読んで時間を潰す。毎日の辛さをしのぐ、唯一の手段だった。

私にできた、転校後の初めての友達だった。

 

2ヶ月もすると、小学校のミニバスケットボールクラブに入部させられることになる。

これも本当に辛くて、小学校を卒業するまで一度も楽しいと感じたことはなかった。

 

ただ、寂しさをしのぐことにはつながったのかもしれない。

 

話を戻そう。

 

そんなある日、読書感想文を提出する課題が出た。

当時私が選んだ本は「ガリバー旅行記」で、小学三年生で、寂しさのごまかしのために選ぶ本ではないのだが、ジブリ天空の城ラピュタでパズーが言っているのを聞いてちょうど読んでいた。もちろん難しい内容ではなく、小学生が読めるような伝記本の、さらに一部分だけの物語で、今なら五分くらいで読めてしまうと思う。

 

ともかく私はそれで、放課後先生に呼び出されるくらいには感想文を仕上げ、転校後、覚えている限りでは初めての自己実現だった。

 

その後にハマったのは、「デルトラ・クエスト」と「ハリーポッター」だ。ハリーポッターはちょうど世代ぴったしで、中学生になるまで毎年新作が出ていたので、親にお金をもらって近くの本屋に買いに行っていたことを覚えている。

紛れもなく、その後の人生で影響を受けたものだと思う。

 

その後、高校を卒業するまでの間は、何を読んでいたかをうまく思い出せない。

ここで5分悩んだがまったく思い出せないので、諦めて次に行くとする。たぶん児童文学だろう。

(追記;思い出した、推理小説や怪盗クイーンシリーズだ。青い鳥文庫は私の心の肥料だ)

 

大学に入ってからは、文化、アートへの理解を深めていくことになる。

 

まず読んだのは、上橋菜穂子の「獣の奏者」である。

これは本当に美しい物語で、今読んでも楽しめると思うし、当時の人生観にも影響を与えたと思う。

その繋がりで「鹿の王」を読み、完全な上橋菜穂子ファンとなる。(精霊の守り人シリーズは未読であるが)

 

その後、本って面白いんじゃないかと思って、カッコつけて色々読み始める。

蟹工船」、「潮騒」、「スタンドバイミー」、今読んでも難しい本ばかり読んでいた。

そしてその後に読んだ、「ノルウェイの森」で少しだけ人生が変わり始める。

 

村上春樹はそれしか読んでいないが、当時はそこそこだなあ、と思っていた記憶がある。

(あんなに名作なのに、もう一回読みたいなあ。「人間は一つになれない」ことを描いた話である。)

ただ、主人公が読んでいる「グレート・ギャツビー」は、次に読もうと買った本であり、私がその本から受けている影響はこのブログで何回も書いたとおりである。

アメリカ文学との出会いだ。

 

その話は散々語っているので、もう一つ語るべきストーリーラインに移ろう。

江國香織ミラン・クンデラだ。

 

江国香織は、当時SNSでフォローしていた有名アカウントがつぶやいていた本、私の人生観に多大な影響を与えた「ウエハースの椅子」が最初の本である。

この本のせいで性格が暗くなった気がする。

江国香織はかなり読んだが、最初がこの本でなければ、江国香織ファンだということを表明することはなかったと思う。

 

初めて、本を読んで、脳みそを殴られたような感覚に陥った。

読書にのめり込むきっかけになった本である。

今読んでも、平気でメンタルを持っていくので気をつけている。

 

その後、好きな写真家が言っていたのが、「存在の耐えられない軽さ」、ミラン・クンデラである。

グレート・ギャツビーとスタンドバイミーで海外文学の挫折を味わった私は(ハリーポッターは読んでいたけど)、どうしても読もうという気持ちにならなかった。加えて当時は、ストーリーよりも文章だけが目的で読書を繰り返していたので、そんな認識の狭さをぶち壊してくれた素晴らしい作品でもある。

この本の最初の2ページを理解するのに、3日は必要だった。

その3ページだけで、「ウエハースの椅子」と同等の衝撃があった。

 

脳は活性化し、興奮状態に陥っていて、アドレナリンの分泌を感じた。

 

今尚、私の人生に影響を与えた本として、トップの座に君臨するものである。

生涯読み返すと思っている。

 

 

ここまで振り返ってみれば、何気なく読んだ村上春樹や、たまたまみていたSNSで、素晴らしい作品に出会うきっかけとなったのだから、何が起こるかわからない。

どんどん読み続けたいと思う。

 

 

 

 

小説の書き出し②

好きな小説の書き出し②。

 

調子に乗って、今日は英語版で。

 

「In my younger and more vulnerable years my father gave me some advice that I've been turning over in my mind ever since.

 

"Whenever you feel like criticizing any one," he told me,"just remember that all the people in this world haven't had the advantages that you've had."」

 

美しい小説の書き出しとして知られる、グレート・ギャツビーから。

 

大学の時に読んだ際、大貫三郎訳の方を読んで、一度挫折したことがある。

その後野崎孝訳を読み、少しだけしっくりきたのを覚えている。それでも読み切るのには多大な努力を要した。

どちらが訳者として優れているかは私にはわからない。

 

ただ、二文目の「advantages」をどう訳すかは大きく違っていて、その解釈を自分でしてみたいと思って、初めて原文まで確認してみた小説である。

とても全部訳す気にはならない。

蘇る挫折の思い出があり(一度だけではないし)、少し尻込みをしてしまう。

 

少しだけ、英語が手段として使えていて嬉しい。

これもちょこちょこ、英語の練習としてやってみようかと思う次第である。

 

 

小説の書き出し①

小説の書き出しは自己紹介と同義である。

 

新しい小説を読む時の感動、すなわちその小説の良し悪しに大きく影響するものだ。

 

もちろんその限りでないのは理解しているが、新しく読み始める時はいつだって気にしてしまう。

そんな好きな書き出しを、何回かに渡って書いてみようと思う。

 

 

「村は死によって包囲されている。渓流に沿って拓けた村を、銛の穂先の三角形に封じ込めているのは樅の木だ。

樅の樹形は杉に似て端正、しかしながらいくぶん、ずんぐりとしている。・・・」

小野不由美屍鬼から。

 

「渓流に沿って拓けた村を」、流線型を思わせるこの無駄のなさで、抵抗をなくした私は、推進力を得てぐいぐい進んでしまう。

「〜端正、」と単語で区切るやり方も、私の文章感に大きな影響を与えている。

 

この三文だけを取っても、影響の大きさに驚いてしまう。

 

 

毎日毎日、こんなに本ばかり読んでいて良いのだろうか・・・。

本とか文章とか

part1

わたしは本を読むのが好きだけれども、では本の何が好きですか、と尋ねられると

なんだかきっちりとは答えを出せない。

 

大学生の時には、はっきりと意識があった。

それは「文章」が好きだった。ストーリーはそりゃあ大事だけれども、なによりも文章。

綺麗な日本語が好きだった。

だから、海外作品の、代用されただけの、色褪せた日本語には、魅力を感じずにほとんど読まなかった。

 

 

けれども最近、2021年現在、海外作品ばかり読むようになった。

相変わらず、「文章」的な、言葉が好きなのは変わらない。

 

たとえばカポーティの、「夕闇が窓ガラスを鏡に変えてしまう。」という一文。

何気ない言葉がわたしを幸福にしてくれる。

 

けれども、筆者がするどい視点で観察して言葉にしたことや、その考え自体を、面白いと思えるようになった。ここでは書ききれない、美しい考え方に出会うたびに、幸せになる。

 

とても良い変化だと思う。

散りばめられた言葉、本の中に埋もれたそれらを楽しみに、前に読み進めるのだ。

良いな、と思ったところには付箋をつけるようになった。

いつか見返すことがあると、とても楽しみである。

 

 

part2

 

今日知ったのだが、S・フィツジェラルドのグレートギャツビーや、ティファニーで朝食を村上春樹はこれらを、「アメリカン・ドラマツルギー」というものに分類しているらしい。

 

そして現れた「イノセンス」という概念。

今日知ったその言葉を偉そうに語ることはしないが、上記二作品の視点や考えの共通性、面白いなと思って調べた時に現れたこの概念、やはり共通に分類されていたこの二作品、今後わたしの人生で、文学との関わりの中で重要な立ち位置を占めるのかもしれない。

 

記録として。   2021年5月1日、GWの初日、休日出勤の夜。

 

メランコリックな魅力

存在の耐えられない軽さ、より、ドンファンであるトマーシュの、長年連れ添った恋人であるテレザが彼の元から立ち去った後の話である。

奇妙なメランコリックな魅力は彼を落ち着かせる。

「勘定を済ますとレストランから外へ出た。そしてますます美しいものとなりつつあったメランコリーの気分に満たされて通りを歩きまわった。テレザとは七年一緒に過ごした。そして今、その年月は暮らしたときより思い出の中でいっそう美しいことに気がついた。

 

彼とテレザとの愛は美しくあったが、世話のやけるものであった。耐えず何かをかくし、装い、偽り、改め、彼女をご機嫌にさせておき、落ち着かせ、絶えず愛を示し、彼女の嫉妬、彼女の苦しみ、彼女の夢により告訴され、有罪と感じ、正当性を証明し、謝らなけばならなかった。この苦労が今や消え去り、美しさが残った。」

 

彼女と別れた時は、悲しいものは確かにあったが、何かから解放されたように感じたのも事実である。

もしかしたら、好きではなくなっていたのかもしれない。

それはわからないけれど、その当時はいろいろと辛い時期で、彼女の素直すぎる言動が重荷となっていたのは事実だった。

 

彼女をご機嫌にさせておき、寝付かせ、嫌いな電話をかけ、楽しそうに話を聞いてやり、下手な演技は告訴され、有罪と感じ、いつだって役者としての自分を作らなければならなかった。

 

その苦労はなくなり、美しかった思い出だけが、僕の中に残ったのである。

素晴らしいものの理解には準備が重要である。

「才能を使い切って見せてくれる人には、こちらも感性を使い切って感じたい。」

 

椎名林檎の言葉だ。

この言葉が語る意味に、ぼくはいつも全面的に同意してしまう。

 

素晴らしい音楽、映画、本に出会った時、その美しさが世界で揺るぎない真実として存在していた時、そのことに気づくことができるだろうか。

準備はできているだろうか。

 

アマデウスという映画は、モーツアルトの才能に嫉妬した主人公が苦しむ物語であるが、それと同時に、モーツアルトの才能を、ほんとうの天才であることに気づけたのは主人公だけであるという葛藤の物語でもある。才能を理解できる才能があった。

相手を陥れる一方で、信じがたい才能を前にして、自らの才能にも嘘をつけない主人公。

そんな誠実な男の生々しい葛藤はこの映画の魅力であり、極端な選択に自らの人生も道連れとなる。

美の追求と、それを生み出すものへの嫉妬も、自ら生まれ持った才能を怠ることなく磨き続けたこと、理由でもあり、さらには教示となりえるであろう。

 

美しいものを心から理解できたとすれば、少しずつ彩度のある人生へと変化していくはずである。

そのためには、準備をしなければいけない。

 

自分の理解する才能を磨いて、準備を怠ってはいけないのだ。