フジロックと社会

GEZANのマヒトゥ・ザ・ピーポーの記事を読んだ。

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言葉を綴って生きてた人だからこその文章だった。我々がなんとなくで持ち合わせている感覚を言語化されるのはなんと気持ちの良いことだろう。

6月の森・道・市場ではいつもの真っ赤な服装を身にまとい砂だらけの場所で一人昼寝していたのを目撃したが、その印象とは全く違う。

 

「出演するアーティストに言いたいのは、迷うことは当然として、主催に全責任をあずけたり、開催の是非について判断をくだせないというスタンスは卑怯だと思う。その前提のままステージに上がるのはフェスの運営にも失礼だし、議論を放棄して今日の開催というものは成立し得ない。
客も演者も主催も同じ船の上にいる。全感覚祭というフェスを主催する身としてそう言える。この時代はただの傍観者でいることを許さない。それぞれが何を大切にし、未来と呼ばれる時間に何を残すか、その選択が委ねられている。」

 

このコロナ禍でフェスを開催すること、誰もが「しれっと逃げ」たくなるような問題提起に心を傾け、「ただの傍観者でいることを許さない」今の時代が要求する価値観をしっかりと代弁している。

 

ゴッチが以前どこかで、我々全員が社会と関わっていることを、例えば日本の死刑制度について例えるなら、とこう言っていた。

「死刑制度を容認している社会の一員である自分が、その死刑執行ボタンを押す一人である。」と。

「加害に参加しかねないというのは自覚というより覚悟の部類だろう。」

 

最近は社会についてよく考える。

 

もはや他国のロックダウンすら羨ましく感じるこの時期に、金色に光るメダルを見ても心の底から感動できない何かを抱えている我々に、一体どうしろというのか。

 

外出できない日々は永遠に感じるが、社会や価値観は日々変化していく。