空虚

例えば大人数で黙ってしまう自分は、いったい何者なんだろうかと考える。

べつに喋らなくても良いし、そのままで僕という人間と認識してくれているのに。

あなたという人は、周りにしっかりバレているよ。どんな人で、他人の目を気にして。

別にもう嫌じゃないというか、それが自分だから今さら取り繕わないけれど。普通の人になろうという葛藤は未だ根強く残っている。それこそ私なのだろうか。それをしっかりと言葉にできるだろうか。私は誰かと生きていくことに向いているのだろうか。本当に安心して一緒にいられるだろうか。頼ることができるだろうか。使おうと思ったQUOカードとアマゾンギフト券のように、私の心の隅の方に、見ようとすれば目に入る位置に、それはあるのだ。一人は安心できる城で、私は長いこと城に篭りすぎたと思う。自分にしか関係のないことで埋め尽くしたシェルターの中で、私は水槽の金魚のようにゆっくりと生活をする。大人になるということは、自分で選んだ道に責任を持つということだ。自分で選んだ道があるか?それはどんな道で、本当に自分が歩きたいと思える道なのか?私は何にでもなれるのに、どうしてこんなところにいるんだ?

クララとお日さま

カズオ・イシグロの「クララとお日さま」を読んだ。

 

最初に内容を聞いた時、「AIと人間の物語なんかやり尽くされている・・・。」と少し白けてしまって、読み始めが遅れてしまったのは正直なところだ。

 

読み終わった今となっては、事前のイメージとは異なった、カズオ・イシグロらしい、人間らしさや社会の時流が描写されたとても美しい物語だったと感じている。

 

もちろん将来的なAI世界やそこに生きる人々を取り上げながらも、茂木健一郎の言う通り、クララは我々人間の心を映す鏡であって、その目から世界と人間の絶妙な心の機微が描写されていて、イノセンスな子供を軸に展開される美しい物語だと思った。

 

大学へ行くジョジーと、最後の別れをするシーンはよく描写されていて、自分が廃品になる運命だと遠回しに告げられても、そんな時でさえジョジーの為に何ができるかを考えるクララは出来すぎたフレンドだと思う。

懸命に役目を果たそうとするクララの純粋さは美しい。

けれども、どんな状況でも自分の役割を肯定し続ける姿は、人間がロボットに求める従順さというエゴを反映しているようでもあって、少しだけ苦しい思いを感じたのは私だけではないはずだ。(ここには大きな議論の余地があるポイントだ)

そんな中で、クララが少しづつ成長し続ける姿に我々は美しさを見出し、イノセンスな子供のように感じ、その点でだけクララを人間と同格に見ているような気がして、自分の中にそのような目線があるのを自覚して、少しだけ寂しくなった。

ギタリスト

僕が小説を書くなら、ギタリストを追っかけている主人公にしたい。

追っかけまではしなくとも、好きなギタリストがいる設定だ。なにかうまくいかない時の特効薬としてギタープレイを見にいく主人公。

ギタリストのモデルは、とあるバンドのギタリストだ。

フェンダージャズマスターを愛用していて、その激しいピッキングから木材にまでダメージがある。

きっと主人公が好きなのは、ソロ中のスポットライトが、激しく揺れうごくギターボディに反射されて幻想的になるあの瞬間だ。主人公とギタリスト、そして轟音。断罪的な音は世界を分断して、主人公とギタリストの空間が生まれる。

 

良いギタリストを見て、よく「ギターが体の一部になっている」と表現するが、このギタリストは全く異なる。彼女の前ではギターはただの木片と成り下がる。彼女という人間を表現する、所詮道具に過ぎない。ギターはその役目を精一杯果たそうと唸り続けて、誰の耳にも捉えきれない轟音となる。

 

死ぬまでには見てみたいギタリスト。

 

浮世の画家

カズオイシグロの小説ではすべての主人公が「自己欺瞞」を抱えて生きている。それは引退した画家かもしれないし、クローンか、英国執事かもしれない。

その時代、その自分だけが考えうるもの、己に恥じない信念を持ち、全てを注ぎ込んで行進する・・・。しかしあるとき振り返ってみると、なんとバカなことをしてしまったのだろう、私は間違っていた・・・、そう後悔する恐怖。なによりも恐ろしいのは、世界にそぐわない信念に薄々気づき始めても、今さら行進することを辞められない弱い自分。信念を持ってさえいれば、、あの時の自分には恥なくむしろ誇りに思う、、そうやって頑固に自分を騙し始めること、正当化した弱さは周りに鮮やかな滑稽さとして映しだされる。

 

カズオイシグロはその恐怖と同伴して生きている。

新しい価値観は常に生まれ、そのなかで自分の意思を決定していくことが求められる時代。その判断を見誤ると奈落の底に落ちるが、その答えを得られるのは、今か、50年後かはわからない。

 

 

浮世の画家」は、終戦という目まぐるしく価値観が生まれ変わる時代で、小野の抱える信念が揺れ動くさまを見事に描写している。代謝よく価値観は変わり続け、屋敷に篭りがちな小野は時代・家族にいつもおいてけぼりにされてしまう。

信念を持ち続けたことは間違っていないはずだ、、、そう思う一方で、周りからの扱いの冷ややかさは彼を動揺させる。過去を回想し現在の価値観を見定めようとする努力は、読者を時の濁流へと飲み込みながら老人特有の哀愁を漂わせる。

 

作品としてすごいと感じたのは、カズオイシグロ本人も言及していることだが、小説だけに許された技法、独特な時の扱い方である。昨日あったことを話した直後に10年前の回想を挟み込み、その繋がりについて作品からは説明をしないことで、読者にたっぷりと想像の余地を与える。

ドラマや映画では同じことをしようとしても困難であろう。

急に過去の描写をフィルインさせるのは、文字で語ることができないのなら服装など外見的特徴で表すほかないし、同じ表現をつかうくどさは視聴者を遠ざける。

 

最後に自己欺瞞を吐露する場面、その決死の行動の空回り感は痛々しいものがあるが、この信用のできなさこそ、カズオイシグロ小説の主人公だと思った。

 

 

フジロックと社会

GEZANのマヒトゥ・ザ・ピーポーの記事を読んだ。

s-scrap.com

 

言葉を綴って生きてた人だからこその文章だった。我々がなんとなくで持ち合わせている感覚を言語化されるのはなんと気持ちの良いことだろう。

6月の森・道・市場ではいつもの真っ赤な服装を身にまとい砂だらけの場所で一人昼寝していたのを目撃したが、その印象とは全く違う。

 

「出演するアーティストに言いたいのは、迷うことは当然として、主催に全責任をあずけたり、開催の是非について判断をくだせないというスタンスは卑怯だと思う。その前提のままステージに上がるのはフェスの運営にも失礼だし、議論を放棄して今日の開催というものは成立し得ない。
客も演者も主催も同じ船の上にいる。全感覚祭というフェスを主催する身としてそう言える。この時代はただの傍観者でいることを許さない。それぞれが何を大切にし、未来と呼ばれる時間に何を残すか、その選択が委ねられている。」

 

このコロナ禍でフェスを開催すること、誰もが「しれっと逃げ」たくなるような問題提起に心を傾け、「ただの傍観者でいることを許さない」今の時代が要求する価値観をしっかりと代弁している。

 

ゴッチが以前どこかで、我々全員が社会と関わっていることを、例えば日本の死刑制度について例えるなら、とこう言っていた。

「死刑制度を容認している社会の一員である自分が、その死刑執行ボタンを押す一人である。」と。

「加害に参加しかねないというのは自覚というより覚悟の部類だろう。」

 

最近は社会についてよく考える。

 

もはや他国のロックダウンすら羨ましく感じるこの時期に、金色に光るメダルを見ても心の底から感動できない何かを抱えている我々に、一体どうしろというのか。

 

外出できない日々は永遠に感じるが、社会や価値観は日々変化していく。

 

 

 

 

 

 

人と触れ合うこと

Chapter1

 

周りの人と関わらずに生きてきた。

 

人に嫌われたくない気持ちに支配されていて、高校の頃までの私の心は、自分から、そして他人から監視されている中で生きていた。

周りに馴染むために、自然に溶け込むために心血を注いだ。

 

大学に行って、理系の、私みたいな人はけっこういるんだなと知って、少しだけ楽になった。

運動部だった私は、あいつらよりはマシだ、とか強がって生活していた。

そんな中でも傷つくことを極端に恐れて、1人を好んで行動していた。

 

シンエヴァで出てきた碇ゲンドウの独白は、ほんとうに私そのもので辛かった。

けれども私だけではないのだ、という気持ちにもさせてくれた。

親戚の家の描写とか。

 

今思うこと。

社会人になって思うのは、ああ、俺は俺のままで良いのかもしれないってことだ。

口数の少ない、話題を振れない、自分の興味のある話しかできない、つまらない人間だけれども

どんな自分だって、最低限常識がある人間であれば、みんな普通に接してくれるらしい。

最近そう思った。

Rさんからの電話でそう思った。

むかしは、なんで話を聞いてやらないといけないんだ、と思っていたけど、そうじゃないんだな。 

 

そもそも普通の人ってどこにいるんだろうか、とも思う。

 

 

Chapter2

 

女性からいつも電話がかかって来る。

 

魅惑的な電話ではない。まったくそれ以外の内容だ。

電話好きだった元彼女、そんな彼女の姉、高校の部活のマネージャー、妹、東京のともだち。

 

私から電話をかけたいと思ったことはない。

男はみんな電話がそんなに好きじゃないはずだ、そう思っている。

 

彼女たちはどうして電話をするのだろう。かけてくるのだろう。

 

ありがたいことに、聞き上手とはよく言われる。

けれど、接した人なら誰でも、私がそんなに話好きな人間でないのはわかると思う。

 

自分の話を聞いて欲しいんだ。

そう思って聞いているが、この時私は2種類の感情を混ぜ合わせている。

 

一つは、嫌われたくない気持ちから、それを態度に出してしまう。

明るい性格ではないが、無理に明るい声をだしてしまう。

やりすぎると、相手に不快感を与えてしまう。

その恐怖と常に戦いながら、声帯を震わせる。

 

バレたら、相手は怒ってしまうのではないか。

「どうして私の話をちゃんと聞いてくれないの」

そんな声をつねに自分に浴びせながら、私は相槌を打つ。

 

だから、電話はどっと疲れる。

 

 

二つ目は、話を聞いてあげることで楽になって欲しいとか、メサイアコンプレックスに似たものだ。

話を聞くことには才能がいる。

天才的に上手い人は、聞くだけでストレスなんかぶっ飛ばしてしまう。

私自身、そんな天才にぶっ飛ばされた経験があるから、いまここにいる。

救われた、たった2時間の記憶が私の人生を形作っている。

 

相手を癒せる人になりたい。

私が救われたように、きつい思いをしている人が、本当に楽になるのなら、何時間でも話を聞く。

電話をかけて来る人は自分からきつい思いを吐き出せる人で、とても健康的なので良いと思う。

問題はそうでない人で、自分から助けを求めることがでいない人。

私もそうだから、こういう人こそ救いたい。

見渡して、そういう人がいた時は、人目につかないように声をかける。

生きていく上で、目標としているが、これがなかなか難しい。

そういう人を救ってあげたいし、私も周りを見渡そう、そう思う人が増えれば多くの人が救われるだろう。

 

毎日電話はちょっときついけど、本当にしんどかったらいつでもかかってこい。

そう思っている。

 

素直でいること

誰といても、素直な自分でいることは最高の理想で、イノセンスに生きることは全人類の目標だと思う。

 

気取らず、素敵な人間性を確立した上で、遺憾無くそれを発揮できることが、幸せというものだと思う。

 

そして、素直でいることと頑張ることは、けっして正反対ではないと思う。

 

私がイノセンスになれる瞬間はいつか、少しだけ考えてみる。

地元に帰ったとき?高校と中学の部活の友達に会ったとき?

 地元というものを私は忘れられないのだろうか。大学の頃の私は少しもイノセンスではなかった?

そんなことはないか。友達とアホやってた時は自分に素直といえばそうだったろう。

大人の真似事ばかりしていたガキは、今も全然変わらない気がする。

イノセンスな瞬間ってなに?素直ってなに?わたしってなに?

「ほんとうの自分に嘘をついていきている」その通りだと思う。

私は自分に合った仕事をしていない。けれどそれをわかって進んだ道だし、合った仕事をやったから素直に生きれるかと言われたらそれもまた違う話。

では、どうすれば良いか。

自分の城を作るのだ。

自分が素直で入れるところ。

気持ちを誰の目も気にせず吐き出せるところ。

甘えられるところ。

 

そうか。

 

僕は文章の中に生きていたんだ。

赤裸々に、自分の気持ち、欲望、渇望、文句、思いつき、義務、ドラマツルギー、劣等感、寂しさ、辛さ、趣味。

 

そう、心があった。

心を映し出すものだったんだ。

 

ああ、私のイノセンスはここにあったんだな。

別に下手でもいいじゃない。

会話ではないかもしれないけれど、心の描写は立派な自分とのコミュニケーションだ。

ちょっとは達成感があるし、メンタルヘルスにいいね。

 

素直に生きてこられた。

それがここだったんだ。

本当に、今気づいたんだ。

 

別に時間がかかっても、うまく言葉が出なくても、毎日続かなくても、どうだっていいや。

それも素直な私だからね。

 

ちょっとだけ、毎日が楽しくなってきたね。

 

続けてみようかな。