浮世の画家

カズオイシグロの小説ではすべての主人公が「自己欺瞞」を抱えて生きている。それは引退した画家かもしれないし、クローンか、英国執事かもしれない。

その時代、その自分だけが考えうるもの、己に恥じない信念を持ち、全てを注ぎ込んで行進する・・・。しかしあるとき振り返ってみると、なんとバカなことをしてしまったのだろう、私は間違っていた・・・、そう後悔する恐怖。なによりも恐ろしいのは、世界にそぐわない信念に薄々気づき始めても、今さら行進することを辞められない弱い自分。信念を持ってさえいれば、、あの時の自分には恥なくむしろ誇りに思う、、そうやって頑固に自分を騙し始めること、正当化した弱さは周りに鮮やかな滑稽さとして映しだされる。

 

カズオイシグロはその恐怖と同伴して生きている。

新しい価値観は常に生まれ、そのなかで自分の意思を決定していくことが求められる時代。その判断を見誤ると奈落の底に落ちるが、その答えを得られるのは、今か、50年後かはわからない。

 

 

浮世の画家」は、終戦という目まぐるしく価値観が生まれ変わる時代で、小野の抱える信念が揺れ動くさまを見事に描写している。代謝よく価値観は変わり続け、屋敷に篭りがちな小野は時代・家族にいつもおいてけぼりにされてしまう。

信念を持ち続けたことは間違っていないはずだ、、、そう思う一方で、周りからの扱いの冷ややかさは彼を動揺させる。過去を回想し現在の価値観を見定めようとする努力は、読者を時の濁流へと飲み込みながら老人特有の哀愁を漂わせる。

 

作品としてすごいと感じたのは、カズオイシグロ本人も言及していることだが、小説だけに許された技法、独特な時の扱い方である。昨日あったことを話した直後に10年前の回想を挟み込み、その繋がりについて作品からは説明をしないことで、読者にたっぷりと想像の余地を与える。

ドラマや映画では同じことをしようとしても困難であろう。

急に過去の描写をフィルインさせるのは、文字で語ることができないのなら服装など外見的特徴で表すほかないし、同じ表現をつかうくどさは視聴者を遠ざける。

 

最後に自己欺瞞を吐露する場面、その決死の行動の空回り感は痛々しいものがあるが、この信用のできなさこそ、カズオイシグロ小説の主人公だと思った。