故郷とはなんだろうか

コロナ禍で久しぶりに帰省をした。

1年3ヶ月ぶりで、温暖な気候とそこに暮らす人たち、ひだまりの中で育ったことを、口では言えぬけれどはっきりと意識する。

何かのエッセイで読んだ言葉。

「都会の人は愛想笑いがうまいが、田舎の人はそんなことをしない。代わりに、ほんものの笑顔がある。」

帰りの飛行機では、離陸してからしばらく泣いてしまった。良い大人なのに、自分にこんな心があったのかと不思議に思う。

 

明るすぎる東京が見えるのと合わせて、飛行機の中は着陸の準備で賑やかになる。

理由もよくわからず、ぼくはいつも緊張してしまう。

 

せかせかと飛行機を降り、自動通路を歩いているうちに、いつとなくぼくは、ふたたびこの街の中へみわけがつかないほど溶け込んでいく。

 

グレート・ギャツビーで一番好きなところ。

 

「僕たちが冬の闇の中に駅を出て行き、ほんとうの雪が、ぼくたちの雪が、両側にひろがり、きらきらと窓をたたき、ウィスコンシン州の小駅のほの暗い灯が走り去るころになると、突然、あたりの空気の中に、野生的な鋭いきびしさがただよってくる。ぼくたちは、食事を済ませて冷たいデッキを戻ってくる途中、それをふかぶかと吸い込み、自分たちがこの地方と一体なのだということを、口では言えぬけれどはっきりと意識する。そうした不思議な最初の一時間を過ごすうちに、いつとはなくぼくたちは、ふたたびこの地方の中へみわけがつかないほどに溶け込んでいく。

それがぼくの中西部だったーーー小麦でも、大草原でも、消滅したスウェーデン人の町でもなくて、興奮にみちた若き日の帰省列車や、凍てついた夜の外套や橇の鈴、灯のともった窓の光を受けて雪の上に落ちる柊の輪の影法師、それがぼくの中西部なのだ。」