絶望的に圧倒的である

今日はたまたま疲れた日だった。

よくある日。

そういう疲れた日は、音楽を聴いたり文章を読んだりしても、僕の場合はなんだか響かない。

 

昨日泣くほど好きだった曲が、今はなんだか響かない。慣れとかではない。

 

僕の場合だけど、なんだか音楽が響かない時は、たいてい理由があって、だいたい二つに分類できる。

ひとつは、上で述べたような疲れた日。これは人として仕方ないのかなあと思ったり。

 

もうひとつは、圧倒的な音楽に出会ってしまったとき。

この力は本当にすごくて、すべてを凌駕するポテンシャルを持っているんじゃないだろうか。

そう思う理由は、昨日感動していたものを聴いてもなにも思わなかったのに、この曲、このアーティストを聴くと、一瞬で心を動かされるから。曲の途中ですでに、日常を忘れている。

そんな曲。


Floating Points - Peroration Six

 

 

自分が好きなのは音楽で

自分が音楽好きである、ということを再認識。

 

音楽のことを考えるとストレスも飛びそう。

 

とある言葉をネットで見かけて、

最近思っていたことに近い表現だなと思ったので、その言葉を借りて僕の思いを。

 

「娯楽としてのポップソングは頭では理解できるけど、本気で面白いものを追求しない奴に魅力はないよな。喋りたくもねえ。」

 

聴く側の人は、もう少しだけ踏み込めば世界は広がるかもよ。

その広さに気づいたら、きっと素晴らしい世界が見れるよ。

 

作る側の人は、

表現を差し置いてエンターテイメントを優先させたものを作って、

たった一時の娯楽として扱われる、それでいいんですか?

メシ代には替えられませんか?

 

面白いものを追求しない奴、人として魅力がない。

 

そう思わない人は、頼むから僕に近寄らないでほしい。

自分がダサいと思うことをする必要性

私が後輩からラブコールを受けているバンドをやりたくないのは、自分が良いと思わない音楽を他人の前で演奏したくないからだ。

 

サークルを引退した。

といっても去年の冬の話だから、もう半年以上前のことだ。

現役の時には同じベースのパートに人が少なかったせいか、僕がある程度のレベル(サークル内の現役のレベルはそんなに高くない)で弾けるためか、お誘いがたくさん来たし、バンドは楽しかったので、とても多くのコピーバンドを組んだ。

サークルの1/4は僕が関わったバンドだった。

そのたくさん組んだバンドについて、その本家の立派なバンドについて言えるのは、そのバンドのことをしっかり好きである、ということである。

少なくとも組んだ当時は。

 

僕が軽音サークルに入ったのは一年生の終わりの方で、最初は違うサークルに入っていた。

そのサークルを辞めてからはしばらく学科の友達と遊んでいたが、ずっと好きなバンド系の音楽にさらに深くのめりこんでしまい、良い音楽について話せる、共有できる人が近くに欲しいと思うのに時間はかからなかった。

私が軽音サークルに入ろうと思ったのは、バンド演奏してみたいということと、自分が良いと思う、好きな音楽について話せる友達が欲しかったのである。

 

たくさんコピーしたバンドの中にも、思い入れの強いものとそうでもないものがあって(組んだ人ごめんなさい)、僕の中ではそれは、大御所だけど、挙げるとすれば「TZ(身バレ防止の為に伏せます)」「Sa」「Ar」だった。

この三つは、まずバンドとして愛しているし、演奏が難しいのでやりがいもあって、かなり思い入れがあるものだった。

最後の引退ライブでTZとArがオーディションに落ちた時には号泣だった(特に事変)。

一生忘れないだろう。

 

やりがいのある(コピー)バンドはもうひとつあった。名は伏せよう。

メンバーが、一つ下の代のオールスターと僕、という組み合わせで、現役の中でならかなり上手いバンドだった。

最後の引退ライブも有力視されていたが、とあるメンバーの素行不良によりオーディションに出場できないことになってしまったバンドである。

僕の中では、確かに「やりがいのあるバンド」だった。

しかしそれ以上でもそれ以下でもない、というのが僕の正直な気持ちである。

 

先ほども言ったように、組んだ時点ではとても好きなバンドだった。ベースラインが結構かっこいい。

でも、最近出た彼らの曲を聴くと、メジャーデビューに飲まれてしまったような曲が増えた。

飲まれるバンドはたくさんあれど、理論系の彼らなら・・・と思っていたのだが、目指している所がさらに上なのだろう、とてもキャッチーなものになっていた。

 

僕の持論というかこれはよい音楽だ、と思う基準がある。

「十年後も聴かれているかどうか」である。

これは音楽だけに限った話ではないかもしれない。

サークルを引退してから、今までよりさらに音楽を聴くようになっていた。新しい音楽を、一日に5曲くらいは絶対聴いている。最初はとても体力が必要だったが、それでよい音楽に巡り合える確率はグンと上がる。

実際素晴らしい音楽をたくさん見つけたし、なにより、良いものを良いものとして認識できる力がついたんじゃないかな、と思う。

音楽を聴いている量は現役の時からかなり多かったので、この音楽はたかが3,4年だろうな、というものは分かるようになっていた。

 

冒頭のバンドは、10年後にも聴かれているのだろうか。しっかりとした表現を失った彼らの音楽に魅力はあるのだろうか。

売れてるバンドは好きじゃない、という話ではない。売れるだけでも才能がいるのは確かだ。

しかし、今現在の音楽シーンは、つまらんフェスに出場するためだけのつまらん音楽があふれかえっている。

日本の音楽性はガラパゴスと言われるが、そろそろ限界を感じている。

そのバンドにも、つまらない独自性の匂いを感じてしまったのだ。

 

いま、後輩たちにそのバンドをもう一度やってくれ、そのバンドでベースを弾いてくれ、とたのまれている。

する理由があるとすれば、後輩のため。

しない理由は、今まで述べた通り。

自分が信じていない、もはや大事でも何でもない物なんかやりたくない。

そんなものを人前で演奏するなんて、僕にとって論外である。

私にはセンスがないですよと吹聴して周ることに他ならない。

ダサいと思うことをする必要性なんて、僕にはない。

映画という芸術に対しての私の感性

久しぶりに映画館で映画を観た。
レヴェナントという、圧倒的に寒い、辛い、痛い映画。

この二時間半の映画を観終わった時、凄まじい映画だったなと思うと同時によくわからないモヤモヤが残って、家に帰る間も映画のことをずっと考えずには居られなかった。

ある程度考えがまとまったらネットでレビューを見てみようと思い、自分なりに考察してみたのだけど、その後レビューを見て、絶望と感動が同時に体を駆け巡る体験をすることになってしまった。

何に感動したかと言えば、それはこの映画のテーマが「親子愛」であり、それによって物語が進んだことは誰にでも理解できることだった。しかし、そのテーマの表現が至る所で…僕の気付かないところで多々存在していて、映画を観終わってモヤモヤしていた理由がテーマ性の主張がなんか弱いと感じたから、と気づけたことと、そのテーマ性の表現自体に深く感動してしまったことだ。

絶望した点は、映画を観ている最中、そのテーマが表現されている箇所に、自分の力で気付けなかったことだ。
このことは本当に悲しく、僕にとっては許せないことだ。単直に言えば、僕が「作り手の狙いにすら気付けない、つまらない受け取り手」になってしまっているということだ。これはもはや、好き嫌い、良い悪いで芸術を評価することすらしてはいけない、僕からしたら本当になりたくないような人だ。自分に怒りすら覚える。

こう思うのも、僕は同じ芸術である音楽ではある程度それが出来ている自負があり、作り手の狙いや意図までを感じることが、受け取り手としてあるべき姿だと常日頃思っているからだ。

音楽でそれが出来ている分、映画での受け取り手である自分がどれほど未熟かがよく分かる。努力しよう。感性を磨こう。

NBAでも最近そう思ったな。

表現の世界

インプットが少ないのか、アウトプットが下手なのか

どちらにしろ視野がとっても狭かったことに気付く

いろいろ聴きかえしてみて、学ぶことに終わりはないと気付く

音楽が体に入ってくるなぁ、きもちいい

この感動を味わいたいから 
その味を知ってしまったから 
追い続けるのだろうか、追い求めるのだろうか

はやく上に行きたいんだよ  表現の世界

緊張とか不安とかネガティヴ感情だったけど

4月21日、今日は忘れない日になるんだろうか。

いろんな人に嘘をついたこともあったけど、これが初めてなんです。

だからこそ緊張したし、これからは不安だし、ネガティヴになってしまうけど、これは無駄な感情な気がする。

これから起こる楽しいことの話をしていこうと思います。

いままでもこれからも魅力的な人でいたいし、いて欲しいな。

楽しもう。
これから、どうぞよろしく。

とある海藻

綺麗な暖簾を押す。


自分のことを思ってくれている人、

僕には特別な人ではない。

しかし、自分に向けられた思いにはしっかり向き合わなければ、という思い。

それは自分が他人に気持ちを向けた経験があるから、そう思うのかもしれない。


暖簾は風に揺れている。


その人は僕にとっては特別な人だからか

逃げずに向き合って欲しかったからか

その状況から抜け出したいだけなのかもしれない


暖簾に手応えはない。


半年も同じ状況だった気がする、もっと多いかもしれない。

自分の中で勝手にその気になっていただけかもしれない。


暖簾はこちらに向けていない裏面も綺麗だ。
僕はそれを見て見ぬ振りをする。


この気持ちを何回経験しただろうか

たった一人相手に

自分でも分かっているのに


暖簾は風に綺麗に踊るだけで、こちらにはまったく興味がない。


頑固だと言われてウッとなる。

本当は気づいていたのかもしれない。

周りからの声でその気になっていただけかもしれない。


暖簾は光を反射して、たまに僕だけに綺麗な姿を見せる。ただの気まぐれなのに。


行動に義務感を感じてしまう。

無視できないほどその疑問は大きくなっていく。


本当は好きじゃないのかも。


暖簾を押し続けるのももう止めたい。


やっとの思いでご飯まで辿り着いたのに、その瞬間嫌な気持ちになってしまった。


暖簾をみる、離れた距離から。

もう押したりはしたくない。